西方見聞録 1 西方との出会い

なんちゃって紀行


子供の頃、地図を眺めて異国に思いをはせたことがなかっただろうか?




1960〜70年代「兼高かおる〜世界の旅」や「素晴らしい世界旅行」という内容の充実した紀行番組が放映されていた。毎週好奇心の塊となってテレビを通じて世界旅行を楽しんだものである。番組によれば彼の地では文字や言葉、食べ物が日本と異なり人々の目の色、肌の色もいろいろという。島国の田舎に住む扁平な顔しか見たことがない児童にとってはちょっとした衝撃だった。

小学校の社会の授業で異国を一つ選び図書室で調べて持ち回りで発表したのを覚えている。特にこの国はというものが思いつかずしばし途方に暮れていたが、どうせなら聞いたこともない国をと選んだのがアフガニスタン。当時殆ど知られていない西アジアの小国だ。

何かの縁でもないが初めて訪れた異国も西方のイラク。何しろ中東、近くもない。行ってみようという人がいたら旅の玄人である。
20代前半の社会人駆け出しが行く初の海外発渡航は仕事によるものであった。


ところで、 JALは日本の国旗を背負う航空会社である。少なくとも当時は皆そう思っていたものだ。それほど大きくない街にも支店があって、ふらりと入れば日の経った日本の新聞や週刊誌が置いてある。

帰国時に搭乗すれば経験豊かで物腰柔らかな客室乗務員が出迎える。

「お帰りなさい」

格別である。何しろ三泊四日の旅行とは訳が違う、長い時は10か月を超える滞在だったからだ。

初の国際便搭乗は成田からクウェートであった。今考えるとずいぶん窮屈なDC-8の出口に向かうと嗅いだことのない匂いが鼻に入ってくる。
そして出口では乗務員が出稼ぎ日本人戦士達に声をかける。

「お元気で行ってらっしゃい」

このとき初めて遠いところに来たのだと気がついた。

あちこち行ってみたが私の知る限りこの挨拶は中東便だけ。このような言葉、年配の乗務員からだととてもしっくりくる。先輩諸氏から JALの経験豊かな乗務員の良い評判を何度か聞いたが、こういうところからきているのかもしれない。いろいろな意味でいい時代だった。

 


一般的なイラクの印象は「危険なところ」だろう。今となっては事実である。

1980年代イラクは隣国イランと戦いの最中。日本でも戦況が報道されていたのを記憶している方も多いだろう。以外に思えるだろうが紛争地では外から見るより中にいる方が状況は落ち着いて見える。真っただ中ゆえ近視眼のため情報は限られる。反対に外からは距離があるため俯瞰するように見え報道が輪をかける。報道は人目を引くため、より誇張した言葉になりがちだ。

電話の向こうの家族が心配そうに聞いてくる「ニュースで見たけど大丈夫?」
当の本人は仕事の後にはホテルのプールで毎日日光浴を楽しんでいるような具合である。
戦時下の管理された状況では治安維持が日常的に強化されている。そのせいか差し迫った身の危険は感じない。

当時プラント建設が盛んで最盛期七百人を超える日本人が滞在していたものだ。山奥にまで活動範囲を広げていた日本人だが戦争による人的被害は報告されていない。ゲリラの村に留め置かれたり、反乱分子による仕掛け爆弾で軽い怪我をした者はいたが大事に至っていない。
これは幸いなことである。


感性あふれる若い時分に訪れたことからか、それとも「住めば都」ということなのか、イラクという国に特別な気持ちを持っている。
足かけ10数年、何度となく訪れた中で彼の地の人々には自分が解っている以上に世話になっていたことだろう。トラブルもなく仕事を終えて自国で普通に生きているというのは実際そういうことである。

   

滞在は1980年代前半〜90年代。状況が現在と異なることをあらかじめお断りしておく。国体、歴史等詳細は Wikipedia等でご覧になるとよいだろう。

ニュースと違った視点で彼の地をお伝えできればと思う。



文中、出処が明記されているものを除き1982年発行
イラク観光省(State Organization For Tourism)
による旅行ガイドの内容を基にしている。

「あなたの英語の上達と私たちの国のお勉強のために」
と、顧客がくれたものだ。真面目に作られている。文明発祥の地として、いにしえから営々と続く歴史に多くのページが割かれている。


物置のスーツケース内で永年眠っていた次第である。気密がいいので色褪せもなく紙の劣化もない。時間がたてば思い出の品だ。捨てないで良かった。

 
 

   
   

国土

 
   

南はシンドバッドの冒険の起点といわれるバスラから北はトルコと接するクルド人の支配地域まで 900Kmほどの距離で幾分縦長の形だ。

南部や北部には豊かな石油資源があり国の収入の多くを生み出している。特に北部のキルクーク地区は今後の増産が期待されていが諸部族間で石油収入分配の課題を残している 。

イラクを語る上で忘れてならない事がある。大河だ。チグリス川とユーフラテス川はトルコに源流を持つ大河でイラクの北から国を縦断し南部のクルナで合流する。

合流した川はシャット・アル・アラブと呼ばれている。「アラブの海岸」という意味だそうだ。この川はバスラを通りペルシャ湾に注いでいる。運河として利用されており河口近くではイランとの国境線の役目も担っている。

中東において大河は人に水の恩恵を与える特別な存在だ。
イラク人ドライバーが言っていた、
「石油が無くてもアラブは困らない、水が無いとアラブは息絶える」

文明は例外なく大河で興り栄えてきた。その中でもここメソポタミアは人類文明発祥の地といわれている。

天文学もこの地で芽生えたそうだ。遊牧民が家畜の番のとき澄みきった夜空を眺めていたのだろう。星々に動物などの形をあてはめたのが星座の起源とされる。

古来より天体の位置は種蒔きの時期を知るのに役立っている。
 

   
   
風土  
   

砂漠地帯だがいわゆる「砂漠」とは趣が異なっている。

砂漠はサラサラのなだらかな砂丘が連なる光景を思い出すが、イラクではカチカチの土の地面。言ってみれば「土漠」である。


暑いところである。中でもバスラは暑さの世界記録を持つ街だ。実際に52℃を経験した事があるが冷房の効いたホテルを出ると熱気がドンと体にぶつかってくる感覚に驚いた。毎日45度程になるがこれはいたって普通の温度である。

反して冬は結構冷える。南部でもジャンパー程度の防寒は必要だ。トルコに近い山岳地域では積雪がありスキーを楽しむことができると紹介されている。

アラビア湾(ペルシャ湾)付近は沿岸でなくとも地面の下に潮の満ち干で海水が侵入しているそうだ。湧き出た海水が焦がすような陽光で蒸発しそこかしこで塩が析出する。暫く見ていると麻袋に塩を詰めている人がいる。パレスチナ人のドライバーに聞けば採った塩を売るのだと言う。天然ミネラルに富み料理に最適だそうだ。手に取ると結晶のままなので粒が大きい。舐めれば日本の精製塩とはかなり異なる。苦みが強いが海の香りが残っているような気がする。

 



水道にまで塩気が入り込んでいるのは閉口する。緑茶は黄色くなり、コーヒーも変な味。現地の飲み物に慣れてしまえということなのだろうが、ご飯を炊いても塩味になる。あまり我慢せず必要に応じてボトル入りの水を使うのが賢明だ。水というのは文字通り体に染みついている。そのような慣れ親しんだもの以外に体を合わせるのは困難なものである。

どの国に行っても三日目頃からお通じに変化が現れる。いわゆるスカッとしたキレがなくなるのだ、それがずっと続く。そして帰国すると平常に戻るものである。これは中東だけではない。インド、東南アジア、そして米国でも同じである。聞いてみると私だけではなく多かれ少なかれみなさんそうなるらしい。

人はこう言う「それは日本の水がいいからだよ」
どうだろう? これを確認する機会があった。

日本へ顧客を招き講習会を行った時のことである。ブレークの時それとなく「おなかの調子はどうですか?」と聞いた。すると、よく聞いてくれましたという顔で「実はあまり良くないんだ」。水道の水はどうだと聞くと「変な味がする」という。大都市では水源の質は好ましいものでは、また水道の送路も短くないだろう。味が変なのは仕方がないとして、奇しくも外国から来た人が日本で同じようなおなかの調子に悩まされる。

どうやらお互い様で、どちらがいい悪いというものでもない。おなかの調子は食材や調理にも左右されるだろう。

日本の水の大部分は軟水である。水の固い柔いは含まれている特定のミネラル分の量で決められる。雨水が短い経路で採取される場合は軟水に、地下水の場合は硬水になりやすい。土壌に依存するところが多いそうだ。

水が合う合わないを考えると鮭を思い出してしまう。命懸けで生まれた川に戻ってくるのだから偉いものだ。
 

   
   

 

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